3/11/2011

忘れないためのあのときの覚え書き

あっという間、とはいわないけれどまだ鮮明に覚えてる。

あの時以来変わってしまった数日前からの覚え書き。

風化、ナニソレ。定期限定日公開は続く


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2011年3月8日(火)

 進行中大阪イベントの事務方仕事がようやく無事に終わり、次の沖縄用の仕事は依然進む様子がないのでこの日は自主休業。同居人ほか現場チームは大阪滞在中。戻りは14日で4日間開いた18日には沖縄の現場に10日間ほど出かける。そんなわけで3月の半分はPちと二人きりで留守番の日々だ。14日は本体事務所のOさん出勤最後の日とのこと。出張組も夕方には車で機材と共に帰ってくるだろうから、メンツがそろって挨拶できるねなんて話をしてた。

 昼間はル・シネマにでかけるも『英国王のスピーチ』はさすがにアカデミー賞効果か開場の1時間前にして満席だったので、ユーロスペースで『トスカーナの贋作』を観る。部分的には好きだったり今ひとつだったり。ユーロでは週末12日からピーターとカサヴェテスの『マイキー&ニッキー』レイトショーが始まる。ピーターの仕事用に購入したDVDで本編は何度か見てるけどプリントで観るのはやっぱり楽しみ。さすがに初日に出かけるのは難しいけど同居人が沖縄へ出かける前の2〜3日の間には観に来たい。たしか2週間ぐらいの限定公開だったはずだから。

 映画のあとはちりめん亭でラーメン食べて、それから毎度のように東急本店地下の紀ノ国屋でドイツパンなどお買い物。タワレコでCDもドカ買い。三茶に戻って近所の東急で買い物したパスタ麺やコーヒーのほか、なにげに缶詰やらレトルトソースに小麦粉とか普段買わないようなものまであれこれ食料品を買い込む。同居人の留守に加えてちょうど引っ越しの敷金返金もあったばかりなので懐もほかほか暖かく、すっかりたがが外れている自分。

 帰宅して長友の試合を観ながらワインすすりつつごはん食べて、Pちと遊んだりベットでごろごろまったり。しばらくはのんびりエンジョイだわなんて余裕をかましてみる。同居人がMacを出張に持って行ってしまったので、久々vaioちゃん活躍。だけどSIMカードを外したせいかWiFiがあまり繋がらず少し使いにくいので、ちょっとしたメールチェックなんかはtouchメイン。ブログの更新は職場でするのが楽。なんといっても今はまだ時間に余裕もあるし。

 フランスからそろそろ帰国してるはずのIさんとNYより帰国中のMくんが珍しく同時期に東京にそろっているということで計画した飲み会の予定日は15日。これならPちのお世話も同居人に頼めるし、心置きなく盛り上がれることだろう。


3月9日(水)

 昼前に大きな地震があった。結構長く揺れてたのでびびった。

<blockquote><p>またうちのビルだけかと思ったらだんだん揺れが大きくなって慌てたわー>地震

posted at 11:51:05</p></blockquote>

 職場はまだ夜明け前状態だったけれどテレシネとりに来ていたSくんがいたのでまだ心強かった。これまで大きめの地震があった時にはオフィスにいたためしがなく毎度恐怖体験を免れてるボス氏話で「まただよー」とひとしきり愚痴ったり大笑いしたり。それ以降は何事もなかったように仕事するでもなくうだうだとブログの更新やらメール書きなどして過ごす。

 帰宅して夕飯後、編集のSさんや元職の先輩Uさんに再度15日の飲み会連絡メールをしたりちまちま。昨日買ったCDを聴こうと思ったけど、この部屋にはオーディオ機器がないのでMacなしでは再生不可。しょうがないのでBeady EyeのCDに収録されてた映像をDVDで何度か見たあと、いつもどおりUSENの70'sチャンネルに逆戻り。ふと、今年は大した還付金もないしーとだらだら伸ばしてた確定申告の書類提出期限がもうすぐに迫っていることに気がついて、遊ぼうかまってーとにゃーにゃー主張しているPちをよそに作業着手。明日出勤前に提出しに行くつもり。


3月10日(木)

 ここのところ何となくぬくい陽気が続いているので、早めに起きると窓を開けたりしている。Pちも一緒に起き出しているので朝からおもちゃのネズミさんで遊んだり、窓に乗っけて外を眺めさせたり。遊んだ後には膝の上で顔かくして眠ろうとするので、退かして仕事に出かけるのがちょっと忍びない。

 10時前には税務署へ出かけて書類の提出。さほど混雑していないので10分もかからず建物を後にする。

 出勤して相変わらずブログやらメール書き。ちっとも仕事してないこの頃なので休みとってもいいのかもしれないけども、次のデータはいつ来るか分からないし、来たら来たで超特急で仕上げなければならないし、あれこれと出張組のフォローもあるので職場待機もやむなし。とりあえず定時には(とはいえそんな決まった時間もないけれど)事務所を出て、いつものように地元の東急であれこれ夕飯ほか買い物しつつ帰宅。

 12日にはツバキ時代からの旧友Oさんと久しぶりにランチの予定。本当は12月の頭に予定していたのが叔父の訃報があったりして2回ぐらいは仕切り直したランチ。昼間だからPちの心配も要らないし、たぶん1年半ぶりぐらいの再会だから話も弾みそうで楽しみ。


3月11日(金)

 この日もわりとぬくかったので11時少しぐらい前に出社。その間、友人Tさんより2月の頭に湯島でランチして以来のメール着。みちのく映画祭で知り合った盛岡出身のTさんは旦那さんの転勤で2年ほど東京で暮らしていたけれど、4月の頭に再び盛岡へ戻ることになったとのこと。その前は大船渡で赴任生活していたから5年ぶりの帰盛だそう。Tさんが言うには共通の友人Mさんが長期でニュージーランドに滞在していて、1週間ほど前に起きた大きな地震に出くわしていたとのこと。幸い被害の大きな場所にいたわけではなかったそうだけど大事がなくてよかった。盛岡に戻る前にまた神保町辺りでランチでもしましょう、と返事を送った。

 この日もデータはまだ来ていないのでのんびりお弁当を食べてブログ書き。留守番組のデスクチーム4名にテレシネ撮りに来ていたSくん、同部屋で出社していたKさん。いつもどおりまったりした午後の空気が流れてた。


 その時いきなり揺れた。こないだより大きいよね?なんていってるそばから比べものにならないほどとても大きな揺れ。しかもとても長い。収まるのかと思いきやまたガタガタというよりゆっさゆさ揺れはじめる。Aくんは急いで入り口と非常階段のドアを開け放って、自分の隣のOさんはデスクの下にもぐりこんだ。長い、長いよーこれ!なんなの!? 自分はいつもやってるように真後ろのビデオ棚を座りながら腕で支えてたけど、デスクに積み上げていたVHSがバラバラと床に落ちていく。ダメだよ、そんなんじゃ危ないから、こっちきたほうがいいって!と阪神で大地震を経験しているAくんに促されOさんと一緒に立ち上がってドアのほうへ移動するも、一瞬収まってはまたぶんぶん振り回されるみたいに、というのが大げさでないほどとかなり大きく強い揺れは続いてる。この間、自分の口から出てきたのは「なにこれ、なにこれ!?」だけ。半ばウソやろ?と思いながらも、顔がこわばって引きつってた。

「これ本気でやばいから下に降りよう」と非常階段を降りだしたAくんに部屋にいたみんなも続いたけれど、揺れに加えて動揺してるせいか思うように足が前に進まない。入り口わきにかけてあったコートをひっつかんで非常口ドアから降りようとしたとき、向かいの馬券場ビルの上の方にカラスかハトがわっと群れて飛び立つのと、ビルの中から外へわらわらと溢れ出てくる人々の黒い頭が見えた。ふと事務所内を振り返ったらさっきまでOさんがもぐっていたデスク後ろの食器棚がゆっくり傾いて机の上に倒れていった。8階から外階段をぐるぐる下りている途中もビルはずっと揺れ続けていた。


 うちのビルの前の歩道には他の階の人たちや、通り沿いのビルから出てきた人たちが大勢立ちすくんでいて、騒然というよりみんなあっけにとられていた。まったく現実味がないというか、まるでパニック映画みたいに。車道に車が立ち往生してた記憶はないが(たぶんこのときはまだ外堀通りも軽い減速程度で車は普通に走っていたように思う。同時刻に車で移動していた他社の営業さんは揺れに気づかなかったとかあとで言ってたけど、ホントだろーか)、通り真ん中の植え込みに逃れてる人たちも何人かいた。その間もなんどもなんども強めの揺れがきていて、少し離れた工事中のビル上部に付けられたクレーンがゆさゆさ揺れていた。一体なんなのか? どこが震源なのか? 東海地震なのか?とあちこちで囁く声が聞こえていたけれど、ワンセグ携帯をもっていたSくんが「震源地は東北だって」と教えてくれた。隣のビルの1階にはいっているドコモの待合ロビーのテレビでニュースを流してないかと思ったけれど、普通にプロモビデオが流れているだけでなにも様子は分からなかった。


 揺れが少し収まってきた頃、机に埋もれているはずの携帯とiPodTouchをとりに8階の事務所まで階段を上って1人戻った。思えばその時点でPCから大阪にいる同居人にメールすればよかったのかもしれないけど。その間にTくんの彼女から事務所に安否確認の電話が入る。てっきり大阪のイベント事務所の担当者嬢なのかと思って、こっちはみんな大丈夫ですととんちんかんな返事をしてしまう。

 また下に降りてから同居人と妹に携帯メールするも全くつながらない。とにかく実家に電話してみた方がいい、とOさんが特殊なテレカを貸してくれたけど、それが使える公衆電話は隣のグリーンホテルにはなかった。電車が動いてないらしいという話も聞こえてきて、自分はPちも心配だし、どのみちあの事務所内は物めちゃくちゃ散乱してるしこんな時に仕事してる場合じゃないだろうということで、今日はもう解散とみんなで荷物を取りに上に戻ったのが16時前ぐらい。そこで実家に電話してみたけれどやっぱりつながらず、身内が読めるわけでもないのにツイッターにひとこと書き込む。

<blockquote><p>無事ですがオフィスがすごいです。岩山大丈夫か?留守番のぺちは大丈夫か

posted at 16:07:21</p></blockquote>

建物が歪んでドアが開かなくなるかも、ということで鍵は施錠せずそのままみんなで事務所を後にした。

 気がつけば郊外に越したばかりのAくんの姿はすでになく、Kさんは仕事移動用で使っている自転車に乗り、残るOさん、Sくん、Tくんと靖国通りに向かって歩き出す。横浜に住むOさんは渋谷まで行って、それまでに電車が動けば乗るしダメなら近場のホテルをとるというけれど、ちょうどうちが空いているから泊まるといいよと誘ってそうしてもらうことにした。そんな話をしながらも部屋は大丈夫だろか、Pちどうしてるだろう?と頭をよぎったけれど、ふと2か月前の1月に引っ越ししておいて本当によかったと思った。前の部屋だったらおそらくOさんを家に泊めてあげられるなんてことはできないほど足の踏み場もなかったし、だいいち玄関のドアが開くかどうかもアヤシかったもの。


 地下鉄の駅はどこもシャッターが下ろされていて、これはほんとに歩くしかなさそうだねと九段下の駅を通り過ぎようとしたとき、昭和館の間から九段会館に報道と救急が来てるのが見えた。中庭入り口あたりの地面に人が寝かされているらしく救急隊の人が応急処置をしてるのが舗道からもわかった。建物内でけが人が出たらしいと周りの人が話していた。

 新宿方面のTくんと別れて3人でお堀沿いに青山通り方面へ。歩きながら携帯メール(ドコモ)の送信を試みたけれど10~20分に一回ぐらいは電波がつながっているような感じもするのに、着信は全く入ってこない。旗はちゃんと3本立ってるのにこっちの送信は届いてるんだろうか。ポータブルWifiでtouchのネット接続を試みるもかなり不安定でほとんどつながらない。Oさんのソフバンもそうで、つながっていたのはSくんのワンセグだけだった。「なんかお家のほうがすごいことになってる、大丈夫ですか?」と見せてくれた小さな画面の中には、なにやら渦らしき動画が映っていた。盛岡は内陸だしうちの実家の辺りは岩盤固いって言ってるからたぶん大丈夫だけど海のほうが心配、なんてことをちらりと話したかもしれない。その時点ではそれぐらいしか分からなかったから。

 夕方薄暗くなってきて青山あたりを通過する頃から歩道をいく人の数もだんだん増えてきた。ヘルメットに避難用のリュックをしょってる人も多かった。途中のコンビニは泊まり込みの食料を調達してる人々もいたのだろうけどどこもかしこも混雑していた。ロビーにテレビが置いてある建物の前には数人の人だかりができていて、そこにはどこの海とも川とも分からない映像がうつしだされてた。

 途中の雑貨屋さんの店先ではお店を閉めて地震で落ちて割れたらしい小物を店員さんが掃除している様子が何軒も見られた。外苑前あたりを通過したのは6時前ぐらいだったと思うけど、渋谷に着いたときには駅の辺りは大混雑していて、バスターミナルにも人があふれかえっていた。


 渋谷からはSくんとも別方向になるのでとりあえずどこかでひと息入れようということになり、井の頭線の駅わきにあるビルの中華屋さんに入る。Pちのために早く帰りたかったけれど、ブーツで2時間以上歩いてきて足も疲れてたし、ビールの1杯ぐらいも飲みたかったから。お店に入ったらいきなりご予約は?と聞かれて苦笑。こんなときに予約してちゃんと来るお客なんているのかねーなんて話しつつ。店内のお客は多くも少なくもなく、みんな声を潜めて話していた。マークシティの建物がすごく揺れてるのが見えたと店の人は言ってた。

 小1時間ほど休んでまた表に出たときには渋谷駅の周辺は更にごった返していた。Oさんが携帯の充電器をコンビニで買おうとしたけれどどこも売り切れ。ラオックスでも店のシャッターを閉めて店員さんが買いに来たお客たちに応対していた。


 いつも渋谷から歩いて帰るときのように246沿いに三茶まで向かったけれど、すでに歩道は大混雑。ただみんな黙々と歩き続けているので身動きがとれないというのではない。とはいえ普段なら30分ぐらい歩けば家までたどり着けるけれど、それ以上はかかるだろうなとは思った。途中何度かバスに乗ることも考えたけど、その頃には道路はすし詰めの大渋滞で車の進む速度はほとんど歩くのと変わらなかったから結局乗らなかった。

 そんな状態で歩いているとき、ふと、こんなに文句もたれずにおとなしく黙々と歩いてるなんて、なんて日本って治安がいいんだろう、日本人ってすごいかも、と本気で思った。それはたぶんあんな大きな地震の直後だったというのに都内は大停電にもならず、沿道の街灯や建物にもごく普通に明かりが点いていたからっていうのも大きいだろう。このとき自転車やらスニーカーやらが大量に売れていたなんて話ものちのニュースでやっていたけれど、そんなことよく思いつくもんだな、と感心した。こっちはただ愚直に歩いてただけだったから。


 歩くこと約1時間ぐらいで三茶に着いた。Oさんは商店街の公衆電話からお家に電話。横浜方面はしばらく停電が続いていたそうだけれど、昔ながらの固定電話がまだ家にあったそうでお母様と話すことができたとのこと。公衆電話も黒電話も残してあるに越したことはないんだね、と。

 ようやく自宅について玄関を開けると、玄関すぐのもしや崩れてるかもと少々心配だったブロック棚がちょっとずれていたぐらいで、台所の食器棚も物が落ちるなどはなかったし、リビングも物が散乱しているようなことはなかった。でもいつもなら帰るとすぐに出てくるPちは顔を出さなかった。呼んでも出てこないし隣の部屋にもコタツの中にもいないので、もしかしてなにかの弾みで表に出てしまっていたらどうしよう…と不安になったけど、ベッドの下に目を凝らしたらずっと奥の隅っこのベッド脚の陰に隠れてちっちゃくなっているのを見つけた。引っ張り出して抱き上げるとごろごろ言いながらも小刻みに震えてる。よほど怖かったんだね、早く帰って来れなくてごめんね、とひたすら謝る。


 お茶でも飲もうとお湯を沸かそうとするとガスが止まってしまっていて、玄関脇のガスメーター横についてる栓を開けないといけなかった。テレビをつけると千葉湾岸の石油コンビナートの爆発や、真っ暗ななかで火災が起きているという気仙沼の様子が映し出されていた。そして福島の原発が急を要することになっているらしいというのも帰宅後のニュースで初めて知った。最初のうちは「ベント」が云々というのがなにかの弁を閉めたりしなくちゃいけないんだろうかぐらいの意識だった。

 余震は相変わらず続いていて、そのたびにOさんの携帯が発するブイブイ怖ろしい警報音にギョッとしてた。11時前後ぐらいには私鉄が少しずつ動きはじめそうというテロップが入り、翌朝電車が動いたら家に帰るというOさんにベッドで先に休んでもらう。

 1時ぐらいに突然携帯メールが復活して、地震直後からせき止っていた同居人や妹からのメールが一気に着信した。PCメールをチェックするとそっちにも同居人や上司、仕事のお付き合いのある翻訳者さんや関西方面の友人たちから安否を気遣うメールが入っていたので、返事を書きながら音を消してNHKをつけっぱなしにし、コタツで一晩中おきていた。ときどき揺れる余震のせいかPちは落ち着かずにうろうろ部屋を歩き回っては小さな声で鳴いていたけれど、こっちもうとうとしかけた明け方に再び強い揺れがきて飛び起きる。震源は長野だという。

<blockquote><p>一体どうなってるの、ニッポン posted at 04:04:43</p></blockquote>

そこからは眠れず、夜が明け、朝が来た。


連休で実家より

 1日より帰省中。出てくるときに東京ではぐずついていたお天気も、こちらは連日爽やかな五月晴れ。今日は夏日だったそうで全国的に暑かったそうだけれど、荷物を抱えて歩き回ったら汗だくになってしまった。朝晩は窓を開けていると肌寒さもあったここ数日だけど今日は今の時間でもミニ扇風機を回して...